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孤島の奇譚

思いつきで始めるブログ。漫画や音楽、アニメ、小説などの感想や、突飛な思いつきなどを書く。プログラミングが趣味だから、そういう話もしたいところ。一度失敗したのに懲りないのはいつものことだ。移動しました→http://isolated-hyakunin-isshu.blogspot.jp/

二次創作と悪 ~悪い二次創作と善い二次創作~

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二次創作と悪 ~悪い二次創作と善い二次創作~

 以前、私は二次創作の中には悪い物があると思っていた。世の二次創作にはイラストや漫画、小説など、様々な媒体・形式のものがある。その中には、登場人物の性格が原作と違うもの、登場人物の一人称が原作と異なるもの、原作の登場人物の性別を逆転させたものなど、様々なものがある。私はその中でも「原作の設定と全く違う二次創作」であると自分が思った物を、「悪」の二次創作と認定していたのだ。ただ、最近になって考え方が変わった。人によっては当たり前の話かもしれないが、自分の考えを整理するため、ここに文章としてまとめようと思う。

 本記事ではいわゆる二次創作というものを扱う。二次創作とは、他者の創作した作品を基に新しく別の作品を創作すること、またはその成果である作品のことである。ここでは二次創作の中でも、小説や漫画、アニメーション、コンピュータゲームなどの筋書きや設定の存在する創作物を基に、主に同人で創作された小説 (SSなど) や絵画、漫画、コンピュータゲームなどを扱う。分かりやすく言えば、pixivやコミックマーケット辺りで多く発表されている二次創作についての話をする。 ただ、それ以外の二次創作にもある程度は適用できる部分もある話だと私は思っている。 また、本記事では「悪」や「善」、またはそれに類する言葉が使用されるが、これは個人の判断を超越した、何らかの基準をもとに絶対的に判断されるものとしている。その基準は法や倫理、道徳などが考えられる。とにかく、本記事における「善悪」は個人の意見で定まるものではないと考えてほしい。 なお、文中で「鑑賞者」という言葉を使うが、本記事ではこの言葉を、小説や漫画ならば読者であり、アニメーションならば視聴者、コンピュータゲームならばプレイヤーを意味するものと定義する。

 最初にも述べたが、以前の私のように、二次創作を善悪で区別しようとする人がいる。何らかの理由を挙げて特定の二次創作を「原作の設定を無視している」、「原作に対するリスペクトが無い」などと評価して、その二次創作を断罪しようとする場合がある。 例えば、原作では登場しないキャラクターが登場する、登場人物の設定が原作と異なる、というような理由をつけて、「この二次創作は原作の設定を無視しているため悪である」と判断するというわけである。 しかし、二次創作について絶対的な基準でもって善悪を定めることができるのだろうか。善い二次創作と悪い二次創作というものを絶対的に区別することができるのだろうか。本記事では二次創作と善悪の関係性についての私見を述べたいと思う。


 まず、一部の悪の二次創作は原作の設定を無視しているという意見について考察する。 確かに、二次創作の中には明らかに原作とは設定が異なっているものがある。原作には存在しない、二次創作の作者が独自に創作したキャラクターが登場する (いわゆるオリキャラ) のがその例だ。ある創作物中の登場人物や事物を、別の創作物で描かれた舞台に持ち込むというものもある (いわゆるクロスオーバー) 。明確な差異が存在しない場合でも、作品の鑑賞者が原作と噛み合わない描写があると個人的に感じる場合もあるだろう。しかし、これらの二次創作だけが原作の設定を無視していると言えるのだろうか。 私はそうではないと考えている。あらゆる二次創作が原作の設定を多かれ少なかれ無視していると私は考えている。より正確に言えば、原作の設定を完全に認識し表現することは、二次創作の作者には不可能なことであると思われる。二次創作の作者や鑑賞者がある二次創作は原作に忠実であると主張したとしても、その二次創作は原作の設定を完全に反映しているとは言えないだろう。 その最大の理由は、二次創作の作者は原作者ではないということであり、二次創作はどう頑張っても原作の偽物にしか成りえないことである。当たり前のことだと思うかもしれないが、この点がこの話題においては最も重要なことであると私は思っている。

 二次創作の作者の中には、原作のありとあらゆる場面を吟味するのはもちろんのこと、原作の設定資料が発売されればそれを舐めるように読み込む人もいるだろう。少数か多数かは分からないが、そのような作者は原作の設定を完全に把握しようと努力する。ただ、その努力にはどうしても限界が存在するはずだ。 原作の描写や設定資料の中に全ての原作の設定が網羅されているとは限らない。もし、原作者の頭の中にだけ存在する設定が存在すれば、二次創作の作者にはその設定を知る術はない。 たとえ原作者がすべての設定を何らかの形で明かしたつもりだとしても、原作者の脳内に言語化されていない無意識下の設定が存在する可能性も否定できない。そのような設定が存在すれば、原作者自身は認識していないが、作中での描写にはその言語化されていないものの影響が出ていないともいえない。 このような点により、二次創作の作者は原作の設定を完全に把握するということが非常に困難である。

 また、原作者の作中での表現と、原作の鑑賞者の表現の把握にも齟齬があると思われる。

 英語の文章を日本語に翻訳するとき、必ずしも英単語と一対一対応の日本語が存在するとは限らない。似たような言葉が日本語に存在しても、翻訳したい英単語とそれに近い意味の日本語とが意味する範疇が異なる場合がある。これにより、完全な翻訳は非常に困難なものになる (なお、翻訳も二次創作の一種であると言える) 。 これと同じことが言語間や民族間、世代間だけでなく、個々人の間でも起こり得る。国語辞典は言葉の意味の一種の基準にはなるが、どうしても個々人によって言葉の意味は微妙に異なる場合がある。複数の人間が同じ言葉を発したとしても、その意味が全員で完全に厳密に一致するとは限らない。

 このような意味の齟齬は原作者と原作の鑑賞者との間にも発生しうる。原作者の表現したいことが、鑑賞者に完全に伝達されるとは限らない。これは、鑑賞者が二次創作の作者であっても同様である。 原作者の表現した事柄の一義的な意味は、原作者の頭の中だけに存在する。鑑賞者がどれほど努力したところで、原作者の頭の中のことを完全に理解することはできないし、それを表現することも叶わない。 ワインに泥水を一滴でも混ぜれば、それはもはやワインではないという例えがしばしば使われるが、二次創作は原作に二次創作の作者の個性という名前の泥を入れる行為ではない (泥で例えるのは失礼ではあるが) 。 二次創作は、自分の持っている葡萄や酒樽だけで、原作という名前のワインを味見して、その味にどうにか近づけようとする行為である。そもそも葡萄も酒樽も持っておらず、蜜柑やフライパンでワインを作ることになる人だっているかもしれない。原作のワインを持ってきてそれに泥を混ぜることすら不可能なのであり、二次創作は一から自分の中で原作に似た何かを作り上げなければならないのである。 二次創作の作者がどれほど原作に近づけたものを作ろうとしても、どうしても自分に由来する何かで構成された創作物が出来上がるのである。 つまりは、原作の表現を完全に理解でき、原作の設定を完全に表現できるのは原作者だけということである。 更に言えば、このことは二次創作の作者の表現においても発生する。原作の設定に基づいたつもりの表現であったとしても、それは二次創作の作者が頭の中にのみ存在することの延長である。二次創作の作者がどれほど原作に近づけた表現を心がけたとしても、鑑賞者がそれを完全に理解することはできないのである。 もっと言えば、原作と二次創作の媒体が異なれば、媒体の表現の得意不得意の差から、齟齬はもっと大きくなるだろう。

 以上の理由から、二次創作を原作に近づけるにはどうしても限界があると考えられる。二次創作は平等に全て偽物であり、どちらがより偽物らしくて、どちらがより本物らしいかなどと比較することは困難である。 二次創作の作者は、努力と原作への愛の果てに原作の設定を全て踏襲した二次創作を作り上げたと思い込むことはできるし、それは二次創作を鑑賞した者についても言える。 ただし、それは二次創作の作者や鑑賞者がそのように認識したということに過ぎず、あくまで個々人の認識の範疇を超えることはできないだろう。 もし偽物は絶対に悪であるという価値観が存在すれば、その価値観の下では二次創作は間違いなく悪であろう。無論、それはそのような価値観であればの話である。 フェルメールの絵画の偽物を売った画家が、ナチスに自作の贋作を売りつけたことを理由に賞賛され、後に実力も認められたことがあることを考えれば、二次創作は偽物であるという理由で悪にしか成りえないということはない。

 少し話が逸れるが、二次創作に対して「原作へのリスペクトが無い」と言って批判する場合がある。二次創作を行う者は、原作に対するリスペクトが必要であり、これを欠かしてはならないというような話がしばしば語られる。 この「リスペクト」という言葉についても考察したい。この言葉は、「ある二次創作は原作へのリスペクトが足りない」などというように、二次創作の断罪に使われることもある。 この「リスペクト」という言葉は、文字通り、「尊敬」や「敬意」を意味するものと考えていいだろう。

 私にとっては、二次創作の作者のリスペクトの程度を、その作品を鑑賞した他者が判断できるというのは甚だ疑問である。 二次創作の作者が原作に対するリスペクトは自分にはないと明言すればその通りなのかもしれないし、鑑賞者が二次創作の作者の精神を覗き見ることで原作へのリスペクトの感情を探し出せるというのならば話は別であるが、リスペクトというものも結局は個々人の問題であると私は考えている。 極端なことを言えば、本当の本当に原作を尊敬しているために、神聖にして不可侵な原作に似た何かを作ることすら躊躇われる人もいるかもしれない。 また、ある人がある二次創作を鑑賞し、それに原作へのリスペクトを感じないというのならば、それはその鑑賞者にとって、二次創作中の表現が鑑賞者自身のリスペクトの範囲を超えていたということであろう。その二次創作の作者にとっては十分に原作へのリスペクトに溢れている内容であったかもしれないのだ。 個々人のリスペクトの範疇に差異があることを考えれば、ある二次創作での原作へのリスペクトの有無を議論したところで、個々人が自分の感性で物を言うだけの不毛な結末に至るだろう。

 そもそも、この原作へのリスペクトが必要という話は、あまりに原作を冒涜する二次創作の出現を恐れたが故に語られたことなのかもしれない。 二次創作は創造主たる原作には勝てず、著作権者 (原作者だけとは限らない) に逆らうことは不可能である。原作と二次創作の力関係が絶対的に固定されているため、お目こぼしを受けるにしろ、公式の二次創作と扱われるにしろ、神の怒りを買うような行為は自らの首を締めかねない。 ただ、それにしたところで、二次創作が原作にとって都合が悪いかどうかを判断するのは神様であって、二次創作の作者でも部外者の下々の民でもない。 非親告罪がどうのこうのという議論の結論が出たとしても、神様に警察が加わるかどうかという話である。 この意味でも、原作へのリスペクトが足りているか足りていないかという議論は不毛であると考えられる。

 以上のことが何を言いたいかと言えば、結局は、人間は一人一人違うという当たり前の話に他ならない。みんな違ってみんないいかどうかは知らないが、みんなみんな生きていても友達になれるかどうかは分からないという話である。 二次創作に原作らしさを求めるのはお門違いであり、原作の別の側面が見たいと言うのならば、それは原作者に頼むしかないだろう。 ただ、誰もが二次創作の原作と違う部分を許容しなければならないというわけではないと私は考えている。どうしても原作に似ていると自分が認識できる二次創作だけを鑑賞したいという人がいても問題はないだろう。可能かどうかは別として、原作にできる限り近似した二次創作を追求するのが好きという作者がいてもいいはずだ。 逆に、原作にないキャラクターを登場させたり、原作の登場人物を殺戮したり、原作の登場人物同士に恋愛感情を持たせたり、原作の登場人物に18歳未満のお子様に見せられないことをさせたりするのが好きだとしても、気兼ねする必要はないし、法に触れない範囲で自由に表現すればいいとも思う。 同様に、ある二次創作について、どうしても原作に対するリスペクトを感じないのだとしたら、それはそれで仕方のないことである。 個々人の好悪の感情は他者にどうにかできることではない。 絶対的な善悪で計ることのできることではないと分かっていても、どうしても嫌いな二次創作というものは私にもある。 絶対的な基準で二次創作を裁けるかといえば、それは個々の問題次第のことではある。ただ、個人的な二次創作に対する好悪を絶対的なものを理由に断罪するのは避けた方が賢明だと私は思う。



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