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孤島の奇譚

思いつきで始めるブログ。漫画や音楽、アニメ、小説などの感想や、突飛な思いつきなどを書く。プログラミングが趣味だから、そういう話もしたいところ。一度失敗したのに懲りないのはいつものことだ。移動しました→http://isolated-hyakunin-isshu.blogspot.jp/

ベクシンスキー氏の話

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ベクシンスキー氏の話

「3回見たら死ぬ絵」

 インターネットで怖いものを見るのが好きな中高生が語る噂にこんなものがある。

「3回見たら死ぬという恐ろしい絵がある」

 その怖い絵として挙げられているのがこの「DG-2446」らしい。 私はもう何度この絵を見たかは覚えていないが、恐ろしい印象を与える絵であることには違いない。そんな噂が生まれても不思議ではない。 この絵を描いたのは「ズジスワフ・ベクシンスキー」(Zdzisław Beksiński)という方で、ポーランドで生まれた。

 彼の絵の多くを 「DmochowskiGallery.net」というウェブサイトで鑑賞することができる。 このウェブサイトはベクシンスキー氏の友人で、彼のファンでもあるピョトル・ドモショフスキー (Piotr Dmochowski) という方が開いている (数多くのウェブサイトで無許諾で使われていると思われる画像の流出源でもあると思われる) 。 言語はポーランド語、英語、フランス語、ドイツ語の中から選べる。デフォルトの言語は当然だがポーランド語であるようだ。日本語版は残念ながらないが、英語を高校でまじめに勉強すれば、辞書さえあればなんとか読める程度の文章だから、調べたければ何とかなる……はずである。外国語に強い人は存分にベクシンスキー氏の作品を味わうことができよう。


ズジスワフ・ベクシンスキーの人物像

増補新装版 ベクシンスキー (パン・エキゾチカ)

ベクシンスキー氏の画集。ベクシンスキー氏についての情報も掲載されている。

 当記事では、前述のウェブサイトと「増補新装版 ベクシンスキー (パン・エキゾチカ)」という書籍を参考に、ベクシンスキー氏についての簡単な紹介をする。前述のウェブサイトを読むための助けになるかもしれない。

 ベクシンスキー氏が生まれたのはのことで、場所はポーランドの南東にあるサノック (Sanok) という小さな町である。 ナチス・ドイツの占領下で中等教育を終えてから、父親のすすめでクラクフ工科大学へ進学した。 彼自身は映画制作の道に進みたかったらしいが、時代が時代だったから手に職をもった方がいいという父の判断からだった。 1951年に在学中に妻ゾフィアと結婚した。 大学に在学したのは1947年から1952年のことで、卒業後も国営企業の建築工事現場監督を勤めざるを得なかった。このときの仕事を彼は「奴隷の鞭打ち人」と評したそうで、不愉快な記憶のつきまとうものだったようだ。

 建築の勉強を終えた後のこの1950年代は写真の作品を制作していた (Room 1. Photographs. The 1950s) 。彼の芸術制作はこの写真に始まる。 彼は写真の活動ですぐに名声を獲得し、ポーランドの写真家の連盟の一員にまでなった。 1950年代の終わりには写真をやめて、金属板やワイアー、石膏でできた抽象的な彫刻やレリーフを作り始めた (Room 2. Sculptures and relief works. The 1960s) 。 ほぼ同時期に、ピカソに影響されて鉛筆やインク、ボールペン、色鉛筆で半抽象的な絵画を描くこともしていた (Room 3. Half-abstract drawings. The 1950s) 。 彼の作品は絵画が有名だが、それ以外の作品もあったのだ。 むしろ、絵画を本格的に始めるのはこれよりも後の話である。この不本意な建築工事現場監督の仕事の後は、妻とともに生地サノックに帰還した。 1958年にたった一人の子供である息子のトマシュが誕生している。 1959年には彫刻家としての最初の展覧会が行われた。スターリン批判以後のポーランドにおけるアヴァンギャルド派の旗手として注目されたが、1960年には彫刻やレリーフから撤退してしまった。

 1970・1972年には絵の展覧会が開かれた。1975年には美術批評家の投票により30年間で最良の画家に選ばれた。 だが、1976年の展覧会を最後に、公衆へ向けての積極的な展示活動は行わなくなってしまった。 1977年には政府から自宅を取り壊すように指示され、クラクフからワルシャワへと移住した。この引越しに際して、彼は過去の作品を「あまりにプライヴェート」なものが多いとの理由で破壊してしまった。 当時19歳の息子トマシュは、家族の引越しに加え、恋人が別の男と結婚するという事件があってふさぎ込み、自分自身の死亡通知をサノック中に貼るという騒ぎを起こした。

 引越しからしばらく経ち、彼のもとには悲惨な出来事が相次いだ。1998年に妻のゾフィアが亡くなった。 一人息子のトマシュは移住の後、輸入版映画の翻訳者やポーランド・ロック界におけるカリスマ的ラジオDJとして活躍した。鬱症で加療中だったが、に自宅で自殺してしまった。 トマシュの死後、彼と親しかったロック・バンドにより追悼アルバムが出されている。

Moonshine

プログレッシブ・ロックバンドのCollageのアルバム。息子トマシュが所蔵していた旧西側社会には未紹介の作品が使われているらしい。

Safe

同じくCollageのアルバム。

 そして、に彼は自宅で殺害されてしまった。犯人は二人で、うち一人は使用人の息子の19歳の少年だったらしい。 その使用人はベクシンスキーの古くからの友人だったそうだ。犯人は未成年だったため詳しいことは発表されていないが、 金をせびろうとして口論になったのが原因となったと言われている。刺し傷は17ヶ所におよび、うち2ヶ所は心臓に達していたそうだ。

 ベクシンスキー氏は血の海の内に生涯を閉じた。私は最初から最期まで孤独で神経質な男なのだろうと思っていたが、 前述のサイトの持ち主などの友人がいたらしいから思っているほどでもなかったのかもしれない。しかも、そのサイトには驚くような写真が「reminiscences」に載っている。 彼の作品ではなく、彼の思い出の写真だ。彼の若い頃の写真には彼がひどい顔をしてふざけているシーンが写っているのだ。 奥さんが亡くなってからは、食事も意外にも貧相なことに牛肉の缶詰で、ときどきマクドナルドに行く程度だったらしい。 とはいえ、緩い人だったというわけではなく、牛肉の缶詰とフルーツジュース、コーラぐらいしか口にしなかったそうで、変化を嫌う人だった。むしろ、意図的にこのような貧相な食事をとっていたようだ。やはり普通とは異なる感覚をもった方だったのだろう。

 次に彼の作品の話を始める。彼は絵画が有名だが、前述の通り、最初は写真や彫刻、レリーフを制作していた。その後、 1960年代では、サドマゾヒストの傾向を見いだし、そのような特徴のある線描を制作した (Room 4. Sadomasochist drawings. The 1960s) 。1970年代では幻想的な絵画を筆を使わずに鉛筆で描いていた (Room 5. Drawings-paintings. The 1970s) 。 1980年代の終わりにスケッチのような絵画を描き (Room 6. Sketches. The end of the 1980s) 、1990年代辺りで水彩画を描いた (Room 7. Drawings. The 1990s and 2000s) 。 単刷版画 (Room 8. Monotypes. The 1960s) やヘリオタイプ (Room 9. Heliotypes. The 1960s) の作品も制作していたが、あまり作品は残っていない。

 油絵は1968年に始めた。本当はそれよりも前から行っていたが、ベクシンスキー氏自身によれば、口をふさがれた顔の絵 (DG-2258) を描いたときから、本当の絵画の時代が始まったそうだ。初期の絵画は後に恥じ入ったために焼いてしまったという。 1968年から1983年までの期間の作品は感情性や意味性、視覚的想像作用に満ちていた (Room 10. Paintings. 1968-1983) 。色は生き生きとしており、人物は精密に描かれていた。この時期の作品が私の知っている界隈では最も有名だと思う。 ただ、創作の方法の模索が終わったわけではなく、だいたい1984年から1989年は風景や色、動きを減らした作品を作るようになっていた (Room 11. Paintings. 1984-1989) 。 更に、1980年代の終わりにベクシンスキーの作品は大きな変化を迎えた。この時期の絵画では形は単純化し、色は控えめになった (Sala 12. Paintings. 1990-1994) 。 その後の1995年の時期の絵画は以前の作品とは全く異なるものとなった。ある絵画はまるで蜘蛛の巣で作られたように見えた。広い空間が細い糸で満たされ、糸の絡まりが顔や建物、人物を形作っていた。ある絵画はぎざぎざとした筆致で描かれていた。これらの絵画は全て感情が剥奪されているかのように見え、色はほぼモノクロになっていた。この時代が彼が亡くなるまで続いた (Room 13. Paintings. 1995-2005) 。年をとるにつれて、体力が落ちて作品の数も減っていった。 1968年から1980年代の前半までは1年で40作も作れたというが、亡くなる前では20作程度にまで減っている。 ただ、その原因は体力の低下だけでなく、創作の方法の模索を行っていたからでもあるらしい。

 彼がCGにも取り組んでいたことはあまり知られていない。同じテーマで異なる作品を作るにはという試み (いわゆる「差分」という奴かもしれない) からCGを採用した。その前は写真複製機を使っていた (Room 14. Works created by means of a photocopier. The 1990s) 。 reminiscencesには、コンピュータを扱うための装置やCDが収められた書斎の写真がある。 1990年代にはフォトモンタージュの作品 (Room 15. Computer photomontage works. The 1990s) が作成された。 2000年代のCGの作品はPhotoshopを使ったもので、作品を50部だけ複製して、それらに署名をして番号を振り、その後に複製がいくらか売れてからオリジナルを削除していくつもりだったが、その前に亡くなった。そのため、署名と番号の付いた作品は希少であり、もしそれが本物だったらすごく価値のあるものらしい (Room 16. Computer graphics. The 2000s) 。

 前述のサイトには、創作の方法や様式の違いから時代に分けて、作品を紹介している。Room 10. Paintings. 1968-1983ではモノクロの絵も展示されているが、それは海外に売られていたり、ベクシンスキーの知らない人が所有していたりしたが、売る前にモノクロで撮影したネガが残っていて、そのネガをもとに複製したものらしい。件のサイトの持ち主が彼にどんな作品だったかを聞いたところ、製作年は不明瞭だったことが頻繁にあったが、大きさと色調は完全に覚えていたという。 そのような白黒写真の作品の複製の中には、サイトの持ち主やベクシンスキー氏自身があまり気に入っていない作品だったために、未だに公表されていないものがあるらしいが、いずれ、全てを公表する予定だという。

ベクシンスキー氏の画集

最後に

 以上でベクシンスキー氏とDmochowskiGallery.netの紹介を終わる。ベクシンスキー氏の作品は刺激的で、恐ろしく、 ぞくぞくする面白いものばかりだから、是非、そのウェブサイトを見て欲しい。 そのウェブサイトに載っているものよりももっと大きい絵が見たい方は画集を購入するといいだろう。

参考文献

  1. DmochowskiGallery.net - Museum Guidebook, 閲覧.
  2. DmochowskiGallery.net - Introduction to the Virtual Museum of Zdzisław Beksiński, 閲覧.
  3. DmochowskiGallery.net - reminiscences, 閲覧.
  4. http://beksinski.dmochowskigallery.net/image_zoom.php?image_id=148, 閲覧.
  5. http://beksinski.dmochowskigallery.net/image_zoom.php?image_id=149, 閲覧.
  6. 増補新装版 ベクシンスキー (パン・エキゾチカ), ズジスワフ・ベクシンスキー著, 河出書房新社, 2013.


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