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孤島の奇譚

思いつきで始めるブログ。漫画や音楽、アニメ、小説などの感想や、突飛な思いつきなどを書く。プログラミングが趣味だから、そういう話もしたいところ。一度失敗したのに懲りないのはいつものことだ。移動しました→http://isolated-hyakunin-isshu.blogspot.jp/

二次創作についての暴言~二次創作は原作を「リスペクト」しているのか~

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二次創作についての暴言~二次創作は原作を「リスペクト」しているのか~

この記事は元来は別のサイトで投稿していたものです。

 一時期、私はある創作物の二次創作を気に入り、その二次創作小説、いわゆるSSについて語り合うBBSに入り浸っていた。その創作物は女性キャラクターがたくさん登場するのだが、そのキャラクターたちは互いにあっさりとした関係性を構築しているように描写されていた。しかし、それは原作の話であって、二次創作ではしばしば異なった。ある二次創作では、ある女性キャラクターが別のある女性キャラクターと糸を引くほどの恋仲であるように描写される。確かに原作でも仲良しという設定ではあったが、あくまでも「普通」の友人という関係性であったはずだ。また別の二次創作では、原作ではほとんど交友関係のないキャラクター同士が平然と仲睦まじく会話していた。しかも、そのような原作の設定とは明らかに異なるとしか思えない描写は、数多くの二次創作で見られたのである。

 私はどうもそのような原作と二次創作との差異が納得できなかった。そこで、件のBBSで質問をした。「原作では彼女たちはもっとこざっぱりとした関係性だったと思うのですがどうでしょうか」というようなことを書き込んだのである。するとこのような返事が返ってきた。「原作と一緒だったらそもそも二次創作する意味がないよね」

 この一件以降、私は原作と二次創作との関係性の奇妙さに悩むことになったのだが、今現在、一応の解釈を何とか用意することができた。この記事ではこの話について書こうと思う。なお、この記事での「二次創作」は漫画やアニメ、コンピュータゲーム、ライトノベルなどを原作として制作された同人の作品に限るものとする。要するに、pixivやハーメルン、同人誌即売会辺りで発表されているもののみを指すということだ。広義の二次創作は、翻訳小説や公式に制作された漫画原作のテレビゲームなども含むが、この記事では扱わないものとする。ただし、アンソロジーとして公式に出版されている二次創作漫画などは含めてもいいかもしれない。

 奇妙に聞こえるかもしれないが、そもそも、二次創作は原作と同じだと評価されない。二次創作は原作を元に新たに創作された作品であるのだが、二次創作は本質的に原作と異なる必要があるのである。極端な例で言えば、漫画の単行本の表紙をトレーシングし、これをその漫画の二次創作だと言ってウェブサイトで公表しても、せいぜい顰蹙を買うだけだろう。ある小説の筋書きと全く同じ筋書きの小説を書いて、それを二次創作だと言い張ったところで、読者は原作を劣化させた何かを見せつけていると思われるだけだろう。原作と全く同じものは二次創作には求められていない。

 作品が二次創作として評価されるには何らかの創造性が必要だ。原作とは異なる要素を二次創作の中に込めなければならない。例として、ある漫画のキャラクターを原作にしたイラストを描くとすれば、そのキャラクターが原作ではとらなかったポーズをさせたり、原作とは異なる衣装を着せたりするといった方法がある。この方法は原作に存在しないものを単純に足し算したものと言えるだろう。原作ではCGだったのを水彩画で描いてみるというものもあるだろう。これは原作の表現方法とは異なる表現方法を用いるということで、新しい価値を二次創作にもたらしている (イラストなどは描き方の癖が個々人で異なることもあり、トレーシングさえしなければ描くだけで同じような意味での創造性がある程度生じるが) 。小説や漫画などでは、原作では存在しなかった展開をキャラクターたちの経験させるというものがあるがよくあるが、これもまさしく原作に新たな要素を加える行為である。ある意味では、二次創作は原作に反逆しなければならないということである。

 とはいえ、二次創作は原作に反乱を起こせばいいというものではなく、あくまでも原作に寄り添うことも同時に求められる。よく二次創作が批判される例で、キャラクターの性格や特徴を原作のものとは異なるように描写してしまうというものがある。原作では普段の二人称が「あんた」であるキャラクターにうっかり「お前」と叫ばせようものなら、二次創作者はファンに袋叩きにされてしまう。二次創作では原作に忠実に振る舞いつつも、それでいて全く異なる価値を付加するというアクロバティックな芸当が求められるのである。

 ただ、ここで言うキャラクターの性格や特徴は、正確に言えばキャラクターの性格や特徴であると「多くの人々に信じられているもの」である。二次創作者は原作者ではないし、原作者の頭の中を覗いて作品の設定を直接理解するということはできない。二次創作者以外の人間も同様だ。人間は生まれたときから他人とは何らかの差異があるものだし、遺伝的に同一な人物も環境や経験が変われば、互いに別個な特徴をもった人間になっていくだろう。とはいえ、人間同士は全く別の種類の生き物というわけではなく、時代、場所、言語などを共有すれば、かなり似通った部分が出てくる。そうでなければ世の中には道徳や倫理といった共同体の間で広く一般に共有される概念は生じ得ないだろう。同じ作品を時代、場所、言語などを共有する人間が鑑賞すれば、その作品の設定に対する認識は共通する部分が出てくると思われる。二次創作に多くの人々の認識する原作の設定と異なる要素があると、その二次創作の作者は「原作の設定を理解していない」と非難されることになる。意図的に原作の設定を歪めた二次創作を作っても同様である。原作とはあまりにも違いすぎる「と多くの人が考える」設定を導入すれば、「オリジナル設定」が行き過ぎてまるで別物だと批判されてしまうことになる。

 二次創作が原作の設定に沿っているかどうかを判定するのは原作者ではなく、一般には原作のファンであるというのが重要である。というのも、原作のファンたちは意外にも原作とは異なる設定の二次創作をお目こぼしすることが多いのだ。そもそも、二次創作でよくある、原作のキャラクターたちに原作では存在しなかった展開を経験させるというものは、原作とは全く異なる設定を与えているということに他ならない。それどころか、原作のキャラクターの大事な特徴である性格や性別などが変化してしまっている二次創作も珍しくない。そのような二次創作を批判する者もいることにはいるが、必ずしも多数派であるとは限らない。結局のところ、二次創作が原作に忠実であると見なされるか否か、または原作に忠実でないとならないと見なされるか否かは、鑑賞するファンたちのさじ加減で決まるのである。多くの人々が良しと見なせば、原作の設定に忠実でない部分があっても見なかったことにされるのである。また、この「多くの人々」というのは原作の全てのファンの多数派ということを必ずしも意味しない。多数派には原作の設定を捻じ曲げていると見なされる二次創作も、ある特定のコミュニティの中では立派な二次創作として大手を振ることができる場合がある。そのような場合では、「多くの人々」はあくまでもそのコミュニティの中の多数派を指している。

 ここで具体例を紹介しよう。「東方Project」というゲーム作品には「リグル・ナイトバグ」というキャラクターが存在している。このキャラクターは少女の姿をした蛍の妖怪という設定なのだが、原作では短髪でズボンのようなものを着用した姿で描かれている。このことが原因で東方Projectの二次創作では男性として扱われてしまうことが多いのだ。女性として扱われる場合でも一人称が「僕」のボーイッシュな少女になっていることがしばしばある。しかし、原作には「ボーイッシュ」な外見をしているという設定は一文も存在せず、そもそも一人称は「僕」ではなく「私」である。東方Projectのファンの中にはこのような状況を憂いている人もいるが、多数派はどうやらそうではないようだ。実のところ、原作の東方Projectには名前のある男性のキャラクターはかなり貴重であり、ボーイッシュな少女のキャラクターもほぼ存在しない (少なくとも現時点では) 。そのため、二次創作のリグルは意図的に原作の設定を歪めることで、新しい価値、つまりは「男性」または「ボーイッシュ」という属性を獲得していると言える。(実際は、リグルはあまり人気のないキャラクターであるらしく、せいぜい竿役を与えられることがいいところなのだがね……)

 これは性別までねじ曲がっているという極端な例ではあるが、このようにして設定を変更することで、二次創作では原作にはない価値を付加することができる。原作ファンが二次創作を楽しむときに、二次創作でのある程度の設定の変更を無視するのは、そもそもそうしなければ二次創作を作ることすら難しい場合がしばしばあるためでもあるだろう。このような二次創作での原作の設定の無視が多くの人々に認められ、二次創作の中での慣習が生じ、ある種のジャンルが作られてしまう場合すらある。二次創作での原作には無い創造性が極度に強まると、二次創作の中の原作の要素が覆い隠され、ある意味では全く別の派生した作品に見えてしまう場合がある。ここまでくると、原作は知らないが二次創作を楽しんでいるという人々や、原作は知らないが二次創作の二次創作を作ってしまう人々が現れることもある (そのような事実が知られると、大抵は原作を知っている多数派に非難されることになる) 。そのような二次創作の慣例が強く築き上げられた共同体では、二次創作が界隈の中で会話し、コミュニティを作り上げるための術になっていることもある。

 ただ、そのような二次創作の原作に反する部分というものをどの程度許容できるかは個人差がある。リグルの件についても、多くの東方ファンは黙認しているが、リグルを男扱いするのは全く認められないと考える人間もいる。二次創作一般に対する姿勢には個人差があり、二次創作を全く認めず、原作以外はどれも単なる偽物に過ぎないと考える人もいる。そのような姿勢は厳格で、その基準も明瞭である。ただ、この二次創作は原作に沿っていて良いが、あの二次創作は原作と全く似ていないから駄目であるというように、二次創作には良し悪しがあると考える人もいる。二次創作を完全に否定する人々にしても、二次創作をある程度は肯定できる人々にしても、悪い二次創作を鑑賞したときには、「原作 (者) に対するリスペクト」なる言葉が紛い物にしか見えなくなることだろう。しかし、二次創作が良い二次創作に見えるかどうかは、二次創作を鑑賞する人間の感性などに依存する部分も多く、しばしば恣意的な決断をしてしまうこともある。極端な言い方をすれば、二次創作は全て原作の単なる偽物に過ぎないと言える。

 そもそも「リスペクト」という二次創作関係でしばしば使われるこの言葉も、単純にそのままの辞書に載っているような意味であるとは限らない。人によっては「私は原作をリスペクトしているため、二次創作は一切制作しない」と考えることもあるだろう。実際のところ、二次創作での「リスペクト」という言葉には原作からの過剰な逸脱を抑制する働きがあるようだ。

 二次創作は原作にない創造性が付加された作品である。しかし、「私の作ったこの二次創作はあなたの作品に新たな価値を加えた全く新しいものなので、あなたのものなどでは決してありません。この二次創作は私の自由にさせてもらいます」などという物言いを原作者や原作を販売する人間などが看過することはほぼあり得ない。ほとんどの人はそのような事態を肯定しないだろう。そのため、現在の法では、原作者などはその二次創作に対して大きな権力を有している。そのような人々のさじ加減で「自由な二次創作」が認められるかどうかが決まってしまう。いくら二次創作に寛容な原作者であっても、極端に原作を捻じ曲げた二次創作まで見逃してくれるかどうかは分からない。最悪、二次創作に寛容な姿勢がこのようなひどいものを生み出してしまったのだと考え直し、二次創作を苛烈に規制し始めてしまう可能性もある。「リスペクト」の概念はそのような「神」の怒りを抑えるための下々の民の知恵でもあるわけである。

 二次創作は本質的に原作とは異なるものでなければならない。ある意味では、原作の結末に不満がある人物が、原作への憎悪を込めつつ自分にとって幸福な結末を二次創作するという行為は、極めて「二次創作的」な二次創作と言えなくもない。ただ、そのような動機を積極的に肯定できる人はあまり多く無いだろう。世の中には自分の二次創作が原作設定を上手く踏襲できていると自負しているという人間もいるが、実際のところ、二次創作は偽物でしかないという意味ではどれもこれも同じ穴のむじなである。そうは言っても、偽物同士仲良くできるかというと難しいところだ。寛容さを積極的に肯定せよという言説が流行る現代でも、寛容であることというのは多くの人々にとっては簡単なことではない。遠くのどこかに自分と違う人間がいるということを否定しない人でも、すぐ近くに自分とは全く異なる人間がいるということにいつまでも耐えられるとは限らない。とりわけ二次創作というものは立場の不安定なものだ。二次創作を愛好する人間でも、あらゆる二次創作を愛好できるわけではないだろう。どこまでが原作に沿っていて、どこから先が原作に反するものかという考え方は人によって異なるところがある。その考え方の外にある二次創作が批判に晒されているとき、その二次創作を守ろうという意識が働くだろうか。結局のところ、二次創作に対する考え方が近しい人々が集まり、その中で適度に原作に反発しつつ二次創作を楽しむというのが自分の好きな二次創作を守る術だろう。



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